海洋基本計画策定への水産学からの提言
2007年12月
日本水産学会

 今般、海洋基本法が公布され、更に海洋基本計画が決定されようとしている。海洋利用産業として長い歴史を持つ水産業および水産学の関係者は、海洋基本法の制定について、大きな期待と不安を抱きながら、その内容に注目している。

 弊会は、水産学に関する研究の進歩・発展に寄与すること、その成果を普及することを目的として昭和7年に設立された。四方を海に囲まれ、日本国民は、古来、海を畏れその恵みを享受してきた。日本は古い歴史を持つ有数の海洋国家である。中でも、海との関係を中心的に担ってきたのは水産業であり、水産業と水産学は、食料供給とそのための技術にとどまらず、海を対象とした自然観、海と人との関わりに関する社会制度と深くかかわってきた。世界的にみても、水産学は、海洋の開発及び利用と海洋環境との調和、またこの分野での国際的な協調について、先駆的な概念(注1)を生み出しつつ発展してきた。水産学は、海洋に関する諸分野について重要な知識を集積し、その成果を広く市民社会に還元することを目標としてきた。また、特に最近では、高度化、多彩化する海に関する科学と技術の進展に寄与するため、海洋学、環境学、海洋工学などと連携した広い分野を含む学際的な研究活動も活発になってきている。

 このような中で、弊会としても、新たな海洋立国の実現に向けて、関係機関・団体などと十分な協力を行っていく所存である。このプロセスの発端として、弊会は、総合海洋政策本部及び関係各位に対し、下記の提言を行う。

I 基本認識

海洋基本法は、第2条から第7条に、我が国の海洋利用において達成されるべき、基本的な理念として、以下の6つの理念をあげている。

海洋の開発及び利用と海洋環境の保全との調和(第2条)
海洋の安全の確保(第3条)
海洋に関する科学的知見の充実(第4条)
海洋産業の健全な発展(第5条)
海洋の総合的管理(第6条)
海洋に関する国際的協調(第7条)

弊会は、これらを今後我が国が海洋利用において達成すべき理念として高く評価し、その実現に向けてとられる施策に協力していきたい。
具体的には、これらの理念を達成するための施策を総合的かつ計画的に推進するため現在行われている海洋基本計画作成の作業に、積極的に意見を述べ情報を提供していきたい。
この作業を進めるために示された「海洋基本計画作成の方向性について(案)」では、基本計画における総合的な海洋政策のテーマの例として、以下の3課題を挙げている。

1.海洋における全人類的課題への先導的挑戦
2.豊かな海洋資源や海洋空間の持続的利活用に向けた礎づくり
3.安心・安全な国民生活の実現に向けた海洋分野での貢献
弊会は、このいずれのテーマも海洋基本法の趣旨に沿った妥当なものであると評価し、その具体的な内容について提言を行う。
これらのテーマは相互に分かちがたく結びついており、それぞれのテーマの内容について、逐条的に提案を行うことによって、必ずしも意を尽くせない部分もあるが、ここでは、「計画作成の方向性」の意図する作業計画にあわせて、そのそれぞれのテーマの具体的な内容について提案する。
1. 「海洋における全人類的課題への先導的挑戦」について
我が国は、世界有数の広大な排他的経済水域を有し、黒潮と親潮が混合する生物学的生産性が高い海域を有しているにもかかわらず、漁業生産量は年々低下し、現在では国内需要の半数を輸入水産物でまかなう状況となっている。
他方で世界に視点を転じると、現在、環境の悪化や沿岸生態系の破壊が懸念されている。国連食糧農業機関(FAO)の2007年の報告書によれば、世界の水産資源の75%が、過剰漁獲又は満限まで漁獲されているとされている。世界の人口が増大し、人類による海洋開発や資源利用圧力が高まるに従い、食料資源の生産場所としての海洋環境の保全ニーズが高まっている状況にある。すなわち、海洋利用に関する利害対立は今後激化することが予想され、何らかの世界的な調整システムが必要となると考えられる。その一方で、国連海洋法条約では、「海洋資源の衡平かつ効果的な利用」、「公正かつ衡平な国際経済秩序の実現」が謳われている。
その中にあって、我が国においては、沿岸社会の漁業関係者が互いの利害を調整し、資源・環境の管理・保全にあたるボトムアップ型のシステムが機能してきた。このことは、共有物(コモンズ)としての海洋資源の利用の今後の在り方に、重要な示唆を与えている。そのシステムの維持にかかわる知識は、沿岸地域で生活し生産活動を行ってきた人々や住民によって、地域特性に根ざして形成され、継承されてきた経験知であり、海洋という公的な空間に関する細やかな知恵の集積である。こうした独自のシステムを社会・経済学的に研究するとともに、自然科学的・技術的な研究によってこれを支援し、その有効性をさらに強化することは、世界の海洋利用に有効なモデルを提供することになる。その結果、国際的な信頼をえて、国際協調のリーダーシップを確保できる。このことは安全保障上、また、輸入水産物の安定確保にとっても極めて重要である(注2)
世界の海洋利用について日本が先導的役割を担うためには、政官産学民の連携を深め、海洋に関する研究体制の強化・充実を図るとこと、とりわけ、生物資源利用に関する科学を文理融合型で推進すること、例えば、海洋資源経済学、国際環境政策学のような学問分野の確立、発展が極めて重要である。
2. 「豊かな海洋資源や海洋空間の持続的利活用に向けた礎づくり」について
  そそもそも、資源・環境が有限であることが、持続的利活用の必要性の根拠である。資源の有限性の意味するところは、生物資源と鉱物資源で異なる。魚類をはじめとする生物資源は再生可能であり、生産のための条件が維持されれば、原理的には生産が無限に繰り返される。その意味では、無限の資源である。しかし、生物生産は環境に制約されており、単位時間内の生産量(生産力)にはその環境とそこにいる生物群集に応じて限界がある。この限界を超えて生産を行おうとすれば、環境と生物群集に破綻が生じ資源の再生が持続できなくなる。つまり、生物資源の有限性とは、その生産力が有限であることを意味する。環境に依存する生産力の限界を、環境収容力という。さまざまな産業が海の生物資源を衡平かつ有効に利用するためには、まず、この生産力の限界=環境収容力が正確に評価されなければならない。また、環境収容力の評価とそれにかかわる要因の研究は、環境収容力の人為的な向上(漁場の創生)という応用的な成果にもつながる。すなわち、海洋資源と海洋環境の持続的な利活用には、環境収容力の研究が不可欠である。しかしながら、海域の環境収容力に関する研究は世界的にみても、定量的な仕事がはじめられたばかりである。全人類的な課題に対して先導的な役割を演じようとする我が国にとって、世界に先駆けてこのような研究を充実させることは戦略的に有効である。
次に、魚食民族たる日本国民の基本的食料である水産物の安定供給・安全性の確保は、海洋利用において最も重視されるべき事項であることに注意を喚起したい。水産物のほとんどは、再生可能な天然生物資源であるが、その資源量は海洋環境とともに長期的・短期的に大きく変動する。したがって、他産業の活動により環境・資源状態が変化すれば、水産業が大きな影響を受け、水産食品の供給を通じて、広く国民への食料供給の安定性、安全性が脅かされる。また、養殖生産により代替できる漁業生産は付加価値が高いものの、タンパク質の供給という意味では世界の総漁獲量の一部であり、その飼料の大半は変動の激しい小型浮魚類に依存していることに注意すべきである。すなわち、水産業・特に漁業の持続的な発展は、食料安全問題であると同時に、海洋環境問題と密接不可分なのである。
また、海洋,とりわけ藻場・干潟・汽水域・サンゴ礁等を含む沿岸域や内湾は,高い環境浄化機能、生物生産機能、稚仔の保育機能を発揮するとともに,文化的価値や市民の親水空間などを含むさまざまな生態系サービスを我々に提供していることも十分に認識しておかなくてはならない。これら浅海域は,陸域も含めた開発の影響を受けて壊れやすいため,優先的に確実な保全・再生措置を講じていく必要があり、そのためには,その時々の利害関係者によるセクター間調整ではなく,長期的視点に立脚した特定のセーフガード措置が必要不可欠である(注3)
以上のように、海洋における有限天然資源の保全を考える際には、短期的な費用便益を考慮するだけでなく、長期的な費用と便益を国策として考慮することが重要である。また、海面の利用に関しては、住民参加型の意思決定システムが、その前提として構築されなければならない。
3. 「安心・安全な国民生活の実現に向けた海洋分野での貢献」について
  世界の水産物貿易のほぼ半分は、途上国生産に依存している。途上国全体では、水産物の純輸出(輸出−輸入)金額は年間200億ドルを超えており、これはコーヒー、ゴム、バナナ、砂糖などの農産品よりもはるかに多い金額である(FAO, 2007)。途上国においては、漁業は貧困層を含めた弱者の産業である。我が国においても、沿岸漁業の少なからぬ部分が生産規模の小さい零細な業者によって担われている。多くの場合、これらの零細な漁業は高齢者等の社会的な弱者によって営まれている。これらは個々の生産額としては少額であるものの、弱者に社会参加の機会を与え、生きがいを作り出している。その機能は無視しえない。その一方で、社会的な弱者による零細漁業は、生産性が低く効率性が悪いために、グローバル化の中で、その競争力がしばしば問題になる。確かに、漁業に限らず、小規模な一次産業の競争力強化は、無視しえない農政上の重要課題となっている。しかしながら、それらが果たしている多くの社会的機能や、長期的な効率性を考えると、短期的な効率性のみを根拠として弱者の存在場所を奪うべきではない。それによって、地域社会が不安定となり、社会的なコストが増すことを十分考慮すべきである。また、テーマ1と関連して、弱者を切り捨てる形での海洋産業の振興は、途上国を含む国際社会のモデルたりえないことは十分認識されなければならない。また、2と関連して、貧困は、資源の破壊的な利用や環境劣化の原因となりえることも忘れてはならない。 以上の理由で、弱者に対する配慮は、安心・安全な国民生活に、海洋産業が貢献するために、最も優先的に考慮しなければならない課題である。
我が国の漁業制度は世界的に見ても独自のものがあり、利用者同士が協調し、互いの権利を確保して重層的・持続的に海面を利用してきたことから、漁業活動の維持や資源の保全以外にも、社会の安定性や弱者保護にかかわる社会的な機能を有している。それが消失することは新たに社会的な費用を発生させることになる。こうした我が国の漁業制度の先駆的な一面は、弱者保護という視点からも、今後も維持・発展させていかなければならない。
また、近年では、離島・僻地などで他の産業が消失していくなかで、漁業だけが産業として継続的に行われているという例も見られる。こうした漁業は、生活の便宜や経済的な豊かさを犠牲にしても、海とともに生きることを選択した人々によって支えられている。独自の価値観からこうしたライフスタイルを選択した人々を、少数者として例外的に扱うのではなく。多様な生き方の一つとして積極的に評価し、支援していくことも、新たな海洋文化の創出のために不可欠である。
II.提言
上記の認識の基づき、海洋基本計画に以下の事項を重点項目として取り入れることを提案する。
1.水産資源にかかわる文理融合型の研究(海洋資源経済学等)の推進
2.環境収容力の評価と漁場創生に関する研究の推進
3.沿岸漁業の振興と経営改善
4.浅海域・内湾の環境保全のためのセーフガードの構築
5.海面利用にかかわる住民参加型の意思決定システムの構築
6.海洋を基盤とした様々なライフスタイルを積極的に評価し、新たな海洋文化の創出を支援すること。
注1)水産学が中心となって作った資源・環境管理にかかわる今日的に重要な概念には、以下の例がある。
1.MSY(maximum sustainable yield): 再生資源利用におけるSustainabilityという考え方をはじめて提示した。
2.順応的管理(adaptive management): 資源変動の不確実性・予見困難性をあらかじめ読み込んだ管理方式の発展
3.譲渡可能個別漁獲割当(Individual transferrable quota):温暖化問題におけるCO2取引の原型
4.海洋保護区(Marien protect area; MPA) 生態系管理の有用概念として使われている。
5.栄養段階カスケード(trophic cascade) 捕食関係をめぐる生態系の重要概念
6.漁業専管水域 EEZの原型
注2)以下に、今後強化すべき調査研究の例をあげる。
1.海洋生物資源・環境調査を継続的に行い、データを公表する。
2.水産資源学と経済学を融合した、適正資源管理のための漁業資源経済学の強化
3.有限天然資源の保全と利用について国際的な連携を念頭に置いた環境政策学。
4.藻場・干潟を含む浅海域の浄化機能・生物生産機能・稚魚保育機能。
5.環境収容力の評価と漁場創生に関する研究
6.漁業・漁村の多面的な機能を評価するための社会科学的研究。
注3)水産業の多面的機能については、2004年8月4日日本学術会議答申「地球環境・人間生活にかかわる水産業および漁村の多面的機能の内容および評価について」(http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/2004.html)を参照のこと
(平成19年12月8日理事会承認)


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